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2005年10月27日 (木)

「死」について

ちょっと真面目モードに入っている。偏屈先生でもそういうときはあるのだ。

『DEATH NOTE』の「死」
DN、Page 84のスキャン読了。DNにしては珍しく、新キャラの魅上照の半生を深く掘り下げている。主人公の月君が「退屈」だから悪人殺しを始めたのに対し、魅上の場合は根が深い。この意識の差が、魅上をして月を「神と認めない=神を騙る者=削除の対象」にしてしまうのではないかと危惧している。なにせ、月はレムノートを持っているが使えない状況にある。刀を持つ同士だし、月は魅上照の顔も名前も知っており圧倒的に有利ではあるが、片方は刀を抜きたくても抜けない状態。何が起こるかわからないのがDNなのだ。
しかし、これが小学生にわかるかな? その辺が心配である。

というのは、今号のジャンプのアンケートで非常に気になる設問があったからだ。作品の難しさや台詞の多さがどう受け止められているか、がテーマなのだが、こんなことを尋ねていやがる。
・台詞が多いのは嫌か……
・絵が細かいのは嫌か……
・話が難しいのは嫌か……
これって、DNの掲載誌変更の布石としか思えないじゃーん。コロコロにしたいのか? そうなったら、もうジャンプ見ないぞ。

しかし、DNは乾いた漫画だ。「死」が事象として扱われている。イベントのひとつでしかない。だからといって「死」を肯定しているのではなく、その意味を記号化しているだけである。それが現代風だと言ってしまえばそれまでだが……この感覚は何かに似ている。

昔、偏屈先生の家の近くの踏切で人が轢かれて死んだことがある。彼はバラバラになった。事故現場を見に行った偏屈先生の目の前のドブの中で、右足がちぎれて転がっていた。それは、死体ではなかった。怖くもなんともなかった。死体はすぐに片づけられた。後日、現場を通りかかった偏屈先生の目に飛び込んできたのは、死体の置かれていた砂利の上に、赤銅色にこびりついていた血であった。それは、何よりも「死」を感じさせた。偏屈先生は震えた。

DNの「死」は、人間性を失った体の破片でしかない。

『漂流教室』の「死」
DNについて「小学生にわかるか」という疑問が起きたのだが、その流れで楳図かずおの名作『漂流教室』の単行本全6巻を中古で購入し再読。1時間で2回ずつ読んだ。ブックオフに売ってれば良かったのだが、全然無かったので、ヤフオク頼み。amazonのマーケットプレイスでセット売りを買うよりもやや安い感じ。でも、同じ店でバラで買って一度に送ってもらえば全然安いことに気付いた。鬱だ……。
内容に関しては何も言うまい。読んでください。読めよ!ゴルラァ! ただそれだけ。読後には名状しがたい不思議な感動が残るだろう。まぁ、突っ込みどころ満載の話ではあるが、何よりもこれが少年サンデーに連載されていたことには素直に驚かざるを得ない(1972年23号~1974年27号に連載。なんと33年前の漫画である)。少年ジャンプに『はだしのゲン』が連載されていたことの違和感も凄いが(しかも『アストロ球団』と同時期に! )、この時期に『漂流教室』の重いテーマが小学生に理解できたのだろうかと思わずにはいられない。
しかも! 偏屈先生的に凄いと思うことは、楳図かずおはこの『漂流教室』の前に『アゲイン』というギャグマンガ(ギャグかどうかは微妙)を連載しており、この『漂流教室』を挟んで、『アゲイン』ではチョイ役の孫が『まことちゃん』としてブレイクする、という流れである。『アゲイン』と『まことちゃん』の間に『漂流教室』が入っている! それはもう奇跡としか言い様がない。なんでそう思うのかは、読めばわかる。

偏屈先生は、この流れをライブで見てたからなー(笑)。

閑話休題。『漂流教室』の「死」は、「行為としての死」だ。あるいは、「キャラクターとしての死」だ。主人公の高松翔の周辺に連なる死は、ある結末へ一歩一歩を昇るために作者が用意した階段のステップである。それぞれ個々の死に意味があるのではなく、それがら連綿をつながっていくことに意味がある。したがって、怖いのだがそこで物語を読むことを止めることできないのだ。それは作者の力量である。キャラクターに思い入れがなければ、できない技である。楳図かずお、恐るべしと、声を大にせずにはいられない。

『はだしのゲン』の「死」
もう一度繰り返すが、なぜこれがジャンプに連載されていたのかわからない。当時の日本はかくもアナーキーだったということか。

内容は言うまい。みんな、知ってるでしょ? 丸木位里さんの本を読む、そして『はだしのゲン』を読む。どちらが怖いか? 直接的に怖いのは丸木さんの本。それは怪談に似ている。しかし、間接的に原爆が、戦争が人間の心をどう殺すかを教えてくれる『はだしのゲン』の怖さは、体の真が凍る怖さだ。この物語は全然熱くない。寒いよ。ひたすら寒い。

その「死」が意味するもの。それは、「死」は所詮人間の所業である、ということ。生き物の社会的かつ肉体的破壊であるということ。存在感の消滅であるということ。人間は、自然に死ぬよりも外的要因によって「殺される」方がはるかに多い、ということ。

偏屈先生は全作品好きである。それは、偏屈先生の思想の根底に「死」があるから。偏屈先生の偏愛する魯迅と同じである。

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