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2006年8月17日 (木)

8月の雑文

偏屈先生は8月に弱い。単純に暑さに弱いせいもあるが、どこか感傷的になってしまうのである。

例えば、蜩(ひぐらし)の声。絹布を通して見るような白い朝靄にかすむ遠くの林、そこから発せられる「カナカナ……」という幻想的な響きの快感。緑の絨毯のように広がる一面の田圃から弾き出されように湧き出てくる黄緑の小蛙、掌で包み込んだときのこそばゆい感触。木片を集めて組み上げた形ばかりの筏で内海にこぎ出す勇気と興奮、足先をするすると撫でていく冷たく濁った東京湾の恐怖。

すべてが懐かしく、苦しい記憶である。

そして、8月は霊魂の蠢く月である。「死」の臭いのする月である。

お盆(旧盆)は苦痛と興奮の儀式であった。死者が戻ってくるという。昨年はお祖母さんが確かに戻ってきたらしい。家人が偏屈先生の背後に立っているのを見た、という。

原爆が落ちて、戦争が終わった。偏屈先生の家族にも戦争に行った者が何人かいる。彼らはいま、神になってしまった。

軍神。現人神を護るために、彼らは戦い、そして神になったという。

本当にそうだったのだろうか。もちろん、「彼」を崇め従い、「辺にこそ死なめ」と教えられて育った彼らが、心の底からそう思っても然るべきかもしれない。生きて虜囚の辱めを受けぬことが当然と信じたかもしれない。どう考えても効率的とは言えぬ「特攻」用の飛行機や魚雷に、志願して乗ることが正義と割り切ったかもしれない。

しかし、彼らにも生きたいという願望はあったに違いないのだ。現人神よりも、故郷の父母、兄弟姉妹、そして恋人や連れ合いを「鬼畜米英」から護るために命を捧げたかもしれないのだ。

そんな「神」がいるものだろうか。死したら「神」として祀るという。それが彼らの名誉回復だとでもいうのだろうか。そこに何の意味があるのか、正直さっぱりわからない。偏屈先生は、彼らの魂は本当に護りたかった人々とともにあると思いたい。彼らが護ろうとした「国」は、彼らが何よりも大切にしていた人々が安らかに住む「場」でしかなかったのだから。

中国や韓国は永遠に「恨」を忘れないという。それも仕方あるまい。勝手に恨ませておけ。その恨みが消えぬうちは、我らも彼らを尊ぶことはない。

ただ、彼らの気持ちはわからぬでもない。日本はあのとき、大陸を「侵略」しようとしたのか、「解放」しようとしたのか。おそらくは、どちらも間違いでどちらも正解なのだ。理想を抱いた者がいたのは確かだし、野望を抱いた者がいたのも確かだ。日本は自らを正当化しようとしてはならない。また、卑屈になってもいけない。我らはただ、真実を説くのみ。何が真実なのかを、ひたすら追い求めるのみ、である。

どこかで線香の匂いがする。都会では、すでにお盆提灯を見ることもないが、微かにぼんやり灯る光が見える。

偏屈先生の8月は、こうして過ぎていく。

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