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2006年9月 8日 (金)

ア、秋。

先週、大きな殿様バッタが庭を飛び交っていた。
今日、門の真正面でそのバッタがひからびてバラバラになっていた。

   *     *     *

昨今、語るべきニュースはもの凄く多い。不可解なヒト殺しは絶えず、細事はマスコミで煽られる。昨日は、某漫画家が自家用車のトランクに「アーミーナイフ」という名称の十徳ナイフを持っていただけで逮捕され、大騒ぎになった。その某漫画家はたまたま自作が映画やらアニメやらになるところで、汐留の某TV局が大いに関与しているのだが、その競合会社の手下メディア(TVやら新聞やら)が、「犯罪者の関与した作品は公開禁止にするべき」的な裏キャンペーンを張り、世論を喚起しようと躍起になっていたようだ。
偏屈先生は聞きたいのだが、十徳ナイフを持っていたことが、どのように反社会的行為なのか? 明確な用途が無ければ買っても持っていてもいけないものなのか? 確かに法律的には銃刀法違反であるという。では聞くが、「便利だから」「いつ何が起きても困らないように」というレベルで買ってはいけないということなのか? 某漫画家も、「キャンプに使う」などと言わなければ良かったのだ。「好きだから」でいいではないか。ナイフが好きなのはいけないことか? 危険だから? 十徳ナイフで何ができるの?

これは飛行機じゃないんだよ。

なぜこんなことをグダグダ言うのか。それは、マスコミの姿勢がおかしいからである。自民党の加藤紘一元幹事長宅が自称右翼に放火されたとき、それを「言論の自由」への挑戦・弾圧であると明確に指摘できたマスコミがどれほどいたのか? 某漫画家逮捕などと、どちらが本質的に「重要」だろう。加藤氏が首相の靖国参拝に触れた発言をする。それを快く思わない「右翼」が自宅に放火する。それは、戦前の一人一殺主義と本質的には同じではないか。日本の方向がねじ曲げられようとしているのだ。
もう一度聞く。マスコミは何をするべきなのか? 何のためにあるのか?
……視聴率や販売部数を稼ぐためかもしれんな(笑)。

それに関連して。先日は某家の出産のために号外が出た。先生自身は、誰に「男子」が生まれようと知ったことではない。もちろん生まれてくる子供に罪も責任もありゃしないが、「天皇誕生日が9月6日になる」などとはしゃいでいる輩を見聞きする度に、プチ・ナショナリズムの台頭を感じて嫌になってくる。

はしゃぎ過ぎじゃないですか?

   *     *     *

今回のタイトルでわかると思うが、偏屈先生は太宰が好きである。
別に九州の太宰府が好きなわけではない。……体調が悪いせいか、ボケに切れがない気がする。

太宰というと、「あれは麻疹みたいなもんで、若いときには誰でも一度は通過する儀式みたいなもんですよ」などとしたり顔で言う半可通がいるが、それは止めていただきたいものだ。
太宰が嫌いな人間は、彼の苦悩がポオズに過ぎぬと言う。確かにそれは否定できない。坂口安吾風に言えば、『斜陽』『人間失格』の如きは、貴族だとか芸術家だとか苦悩だとか、太宰の嫌らしさが鼻につく作品ということになろう。
その対極にあるのが、『走れメロス』とか『女生徒』『グッド・バイ』などの「明るい」作品だという。そうだろうか?
太宰の作品にはすべてこの独特の「嫌らしさ」があると思う。その気取った含羞も弱さも苦悩も、すべて作者の演出であると言い切ってもいい。「自分は芸術家である」などと言う人間は、笑われるのである。彼はそれを知っている。そのうえで、笑われることを望んでいるのである……そう、ピエロなのだ。

実は、こういう感覚は、職業作家なら誰でも持っているはずだ。職業作家でなくても、例えばこんなケチなブログだって、他人が見ると思えば作者は自らの感覚の上に殻を築く。要はその築き方の巧拙の問題でしかない。読者は、その「嫌らしさ」を楽しめばよいのである。
しかし、もしこれを読んでいる諸君が、太宰のポオズはどうしても嫌いだと言うのなら、ぜひ新潮文庫版『二十世紀旗手』に収められている『HUMAN LOST』を読んでほしい。これこそが、本当の「人間失格」だと思う。比較的、太宰の「生」の素顔がニュッと顔を出してくる作品だ(できれば『新潮』掲載時の初出原稿を読んでほしい)。
ここでは、太宰は確実に狂人である。廃人と言ってもいいかもしれない。偏屈先生の経験では、このようになるヒトの99%は、自ら築いた自我に、自らが潰されてしまう人々である。誰もが無意識に、自らが理想の、希望の、思惑通りの、イメージの自分を構築して生きている。それが何らかの拍子に第三者に(時代に、と言ってもいい)否定され、ねじ曲げられたとき、ヒトは無意識にそれを拒絶しようとする。そして、その行為が上手く行かなかったとき……理想と現実の距離感を見失ったとき……その瞬間に、自らの「存在」は消滅し、堕ちていく。
それは、カラ足を踏むという行為に似ている。

太宰は、カラ足を踏み続けた作家であった。または、カラ足を踏み続けることで、その喪失感を意識的に纏った化け物であった。自分を否定することで存在感を演出し続ける男。
彼の作品……特に戦後の数編については、職業的にピエロになることで、キャラを立てていたのである。

『如是我聞』という作品は、そういうポオズを志賀直哉に見透かされた焦りが生んだ産物だ。自分は堕ちることでしか存在を見いだせない。にも関わらず戦前戦後も毫も変わらない既存作家たちの物量感に、太宰は本質的な危機意識を持ったのだと思う。それは、彼らが存在すること自体が、「自分の存在の否定」に直結するからである。感覚に対する物量としてのモノの意味。

自分の存在を探すことで一生を遣い果たしてしまった作家、太宰治。
『ア、秋』という小編に、拡散していく自我が垣間見える。それは、秋の風景ではなく、薄く、連続性もなく、消えていく作者の意識である。
偏屈先生の秋は、ここから始まる。

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